ニュースリリース

祝!「赤穂の塩」の歴史文化が文化庁より"日本遺産"に認定されました。

DATA:2019/05/24/ カテゴリー:お知らせ

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 令和元年5月20日、文化庁「日本遺産審査委員会」の審議を経て、赤穂市が提案していた「『日本第一』の塩を産したまち播州赤穂」のストーリーが、新たに日本遺産に認定されました。 

▼タイトル
「日本第一」の塩を産したまち播州赤穂

▼ストーリーの概要
 江戸時代、システマティックな入浜塩田による塩づくりが確立された播州赤穂。瀬戸内の穏やかな海と気候に抱かれ、千種川が中国山地からもたらした、良質の砂からできた広大な干潟は、入浜塩田の開発に適していた。その製塩技術は、瀬戸内海沿岸に広がり、市場を席巻するまでに成長した。中でも赤穂の塩は、国内きってのブランドとして名を馳せ、赤穂に多彩な恵みをもたらした。このまちには瀬戸内海から生み出される塩とともに歩んできた歴史文化が蓄積され、現在に息づいている。赤穂はいまなお「塩の国」なのである。

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▼ストーリーの詳細
 日本列島では岩塩のような塩の資源に恵まれないことから、古来よりもっぱら海水を原料とする塩づくりが行われてきた。四方を海に囲まれた日本列島では、海水は無尽蔵に得られるので、塩づくりはたやすいように思えるが、海水中の塩分濃度はわずか3%にすぎないので、多量の燃料を使って1リットルの海水を煮詰めても、塩は30グラム程度しか手にすることはできない。
 同じ量の燃料を使うなら、煮詰める海水の濃度が高いほど効率的なので、我が国の塩づくりの歴史は、いかに効率よく海水を濃縮して煮詰めるかという技術革新とともに歩んできたといってもよい。

 日本の塩づくりは、はじめ土器に海水を入れて煮詰める方法で行われ、古くは縄文時代に遡る。この土器製塩法は、弥生時代中期から平安時代ごろまで、備讃瀬戸地域や近畿周辺で盛んに行われた。このころ、赤穂でも塩屋堂山遺跡で土器製塩による塩づくりが行われていたが、それはまだ自給自足の域を出るものではなかった。
 中世以降、海水を砂に撒いて天日で水分を蒸発させ、濃縮した海水を得る塩田法が行われるようになると、土器製塩の時代のように海水と燃料があればどこでも製塩ができるわけではなくなる。

~播州赤穂「塩の国」となる~
 波穏やかで多島美の広がる瀬戸内海に、兵庫県内随一の清流千種川(ちくさがわ)が注ぎ込み、中国山地から流れ出た花崗岩起源の砂は、その河口部に広大な干潟を形成した。潮の干満の差が大きく穏やかな海と、年間を通じて晴れの日が多い瀬戸内海式気候と相まって、この広大な干潟は、生産性の高い新式製塩法である入浜塩田(いりはまえんでん)には、またとない絶好の地であった。

 浅野赤穂藩の初代藩主、浅野長直が正保2(1645)年に赤穂の地に入封すると、ここで大規模な入浜塩田の開拓に着手し、浅野家三代で約100ヘクタールの塩田を開いた。赤穂の入浜塩田は、浅野家断絶のあとも永井家・森家へと引き継がれ、江戸時代を通じて開拓が進められた結果、千種川の東に約150ヘクタール(東浜塩田)、西に約250ヘクタール(西浜塩田)にまで拡大した。この入浜塩田による塩づくりの技術は、瀬戸内海沿岸を中心に各地へ伝えられ、やがて近世日本の製塩を席巻することとなる。

 赤穂は、専業経営と持続可能な製塩法としての入浜塩田が完成された最初の地なのである。それは、近世・近代の文献にも「諸国海辺より多く塩出るといへ共、播州赤穂の塩を名物とす」「塩ハ当国赤穂にて製するを国内第一等の品とす」などと謳われたように、赤穂はまさに塩焚(た)く煙たなびく「塩の国」であった。

~塩づくりの技術革新・入浜塩田~
 入浜塩田は、干潟を防潮堤で囲い、その内側に、干満潮位のほぼ中間の高さに地盤を造成して造られた。防潮堤に囲まれた一区画を「うつろ」といい、うつろとうつろの間には「水尾(みお)」と呼ぶ水路があたかも植物の葉脈のように張り巡らされ、塩田への海水の導入と、塩や燃料を運ぶ運河の役目を果たした。
 入浜塩田の塩づくりは、水尾と防潮提によって海水をコントロールし、干満の時間に関係なく効率的に作業が行える画期的なシステムであった。江戸時代に確立されたこの入浜塩田は、以後、昭和30年代に枝条架(しじょうか)と呼ぶ装置から海水を滴下させて塩分濃度を高める流下式塩田(りゅうかしきえんでん)へと転換するまでの300年間にわたって、日本の主要な製塩法となった。

~赤穂の塩は「日本第一」~
 赤穂塩田は、千種川を挟んで東浜塩田と西浜塩田に分かれている。東浜では、江戸などの東日本や北国の好みに応じ苦汁(にがり)を含む差塩(さししお)(並塩)を、西浜では薄味の食文化である上方向けに、苦汁を除去し白く小粒で上品な味の真塩(ましお)(上質塩)を生産するなど、日本の多様な和食文化にも大きな影響を与えてきた。その結果、司馬江漢も書いているように「赤穂塩日本第一也」の評価を得て、偽物が出回るほどのブランド塩となって、赤穂に莫大な富をもたらしたのである。

 塩田の経営によって財を成した田淵家の庭園をみてみよう。江戸時代の文人達も探勝した風光明媚な赤穂御崎(あこうみさき)へ向かう海沿いの道路に面して田淵邸がある。山麓の傾斜地を利用し、書院の前に池庭を設け、そこから斜面を登っていくと、春陰斎(しゅんいんさい)と明遠楼(めいえんろう)という二つの茶室を中心とした露地が展開する。特に、二階造の明遠楼の座敷からは、眼下に広がる広大な塩田が一望でき、しばしば藩主の御成をもてなしたという。ここを訪れると、豪商となった塩問屋の暮らしと文化を垣間見ることができる。

 一方、こうした塩田地帯から離れた入江にある港町、坂越(さこし)。塩田で作られた塩は、この港に停泊する塩廻船に運び込まれ、諸国へともたらされた。廻船業で隆盛を極めた坂越には、海岸や大通りに沿って、廻船業者の居宅、社寺、浦会所などの建物が軒を連ね、塩田周辺の村々とは一種異なる町場の景観が展開し、往時の塩廻船で賑わった港の喧噪を思いおこさせる。

 明治になると、政府は国内塩の保護と国家財源の確保のために塩の専売制を導入し、全国の産地に塩務局を置いて、塩の収納と売り渡しを担わせた。赤穂にも、明治38年に塩務局が特設され、洗練された洋風のディティールが散りばめられたスタイリッシュな洋風の事務所建築のほか、煉瓦造の重厚な文書庫や、長大な切妻屋根の塩倉庫が並ぶ。全国にあった塩務局のうち、ほぼ完全な姿で残されているのは唯一ここだけで、塩の専売制という新時代を告げる国家の威風を今に伝えている。

~塩づくりが育んだ歴史文化~
 塩づくりは、まちの成り立ちだけではなく、製塩を生業にしてきた人々の生活文化、習俗にも深く根付いている。毎年10月になると、村々では秋祭りが行われ、毎週のように趣の違う祭礼が繰り広げられ、塩で財を成した豪商達が競って私財を投じ庇護し、塩田で働く若者達によって伝承されてきた歴史の面影を彷彿させる。赤穂の秋は、塩づくりにかけてきた人々の文化を時代絵巻のごとく体感することができる。

 また、塩づくりとともに生み出された赤穂の名産として、赤穂緞通(あこうだんつう)と塩味饅頭(しおみまんじゅう)がある。赤穂緞通は、塩田で働く女性の副業として、鍋島・堺とともに日本三緞通の一つに数えられ、大正期には海外に輸出されるまでになり、今も脈々と受け継がれている。また、赤穂の海に沈む美しい夕陽の情景をヒントにして江戸末期に考案されたという塩味饅頭は、塩で甘さを抑えた餡(あん)を使う赤穂の銘菓として、また、茶席での菓子としても喜ばれている。

 塩は、生命にとって不可欠であるばかりでなく、最も基本的な調味料として、古来より日本の食文化を豊かにしてきた。塩づくりの方法は時代とともに移り変わりながらも、赤穂における塩の生産量は、現在も国内の約2割を占めている。このまちには、瀬戸内海から生み出される塩とともに歩んできた歴史文化が蓄積され、息づいている。
赤穂は今なお「塩の国」なのである。

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<日本遺産>
 地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(JapanHeritage)」に認定するとともに、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内外に戦略的に発信することにより、地域の活性化を図ることを目的とし、平成27年度に創設されました。

                                        ※赤穂市教育委員会HPより説明文引用

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